紗幕に、次の文字。

諸君は盆を欲するか?
それならば、まず役者をもつことから始めたまえ。その盆を味わいうるだけの自由な精神をもった役者。貧しさや激しい労働にさいなまれることのない余暇をもった役者。迷信や、右派や左派の狂信にまどわされることのない役者。自分自身を支配し、かつ、現在行われつつある闘争の勝利者たる役者を―――。

盆というのは舞台装置の盆のことで、盆の上でグルグル回りたいという思いに駆られて、去年のいま頃「卒業発表会での盆の使用を望む請願書」みたいなものを作って、卒業生全員の署名を集めて担当の演出家に提出をしたことがあった。

結果から言うと盆の使用は叶わなかった。(たしかにチェーホフの『三人姉妹』に盆の回しどころはない。まったくない。)

でも回りたかった。まだ盆で回ったことがない。

今も回りたい。

盆は今も僕にとって憧れであり続けている。

よく考えてみてほしい。

舞台がグルグル回るのである。

「限られた舞台空間で最大のスペクタクルを」とか、そんな理屈はこの際どうでもいい。

誰しも小さな頃、公園の適当な遊具で吐くほどグルグル回った経験があるはずだ。

「グルグル回る=楽しい」というのは人間の根源的な欲望に基づいている。

だとすれば、世界を写しとる鏡であるはずの舞台が回らない方がおかしいのである。

電子レンジ、CDやDVDのドライブ、あるいは都内の駐車場によくあるこういうやつ。
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あるいは、洗濯機の底。
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これらはすべて盆である。

世界は盆に満ちている。

我々が強く望みさえすれば、盆はいつでもグルグル回る。我々を乗せて。

例え舞台がつまらなくとも、盆が回りさえすれば帰り道に気まずくなることはない。

「おもしろかった?」
「うーん…」
「でも、回ったね、盆。」
「ああ、盆。」
「盆。」
「回ったね。」

国破れて山河ありとはこのことである。

あとは「なぜ盆は回るのか?」ということについて考えていれば最寄の駅に着くはずである。

鋭い人なら「盆が回るのは世界に重力があるから」という事に行き着くかもしれない。

突き詰めて考えれば、盆が回るのは地球が回るからであり、それはつまり重力が存在するからである。

そうなればもはや映画『インターステラー』の領域である。

次元を超越する愛の力。

そう、盆を回すのは人や電気の力ではない。

愛である。

劇場に着いて、舞台上に円形の切り込みが見えると私の心は躍る。

「いつ回るのか?」「どう回るのか?」「どれくらいの速度で?」「何周?」

私の興味はそこへ集約される。

盆が回るのなら、私は寝ない。

盆とはつまりそういうものだと、2015年の終わり、今あらためて思う。

松本

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