第1回公演の時に用意した文章です。
“The Dishwashers”に向けて、一応の理屈 (新劇から遠く離れて)
3年ほど前、新劇の劇団の養成所に入ったばかりの僕が読んでいたのは菅孝行著『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』という本だった。というのもその養成所へ入る前にいろんな人から「今わざわざそこへ行かなくても」「新劇は堕落しきっている」といった事を言われていたからだ。肝心の本の内容は今一つ覚えていない。かつて数カ月俳優座の養成所に在籍したことのある管孝行さんが千田是也はいかん!と憤怒するといった内容 だったかと思う。
とにもかくにも「新劇」ということを何度も何度も考えつつ、そうか今いるここが新劇の本拠地か、堕落しきっているのかと思いながら、あっという間に三年間が過ぎた。
一年目の卒業式で号泣した僕は三年目の卒業式でも同じく号泣していた(養成所では2回卒業式があった)。「新劇」というものが何なのか、というか演劇そのもの、いい俳優やいい演技がどういったものなのかは結局あまりよくわからなかったけれど、とにかくそこには同じ時間を過ごした同期がいた。「新劇」はもしかしたら堕落しきって本当に駄目かもしれないが(心底そう思う瞬間は何度かあった)、一緒に時間を過ごした同期の演技や演劇に対する若い思いは買いだな、と思った。そんなこんなで勢い余って卒業直後に同期をかき集め、こうして公演を行うことになった。
ジャマイカで生まれたサウンド・システムというものをご存じだろうか。簡単に言うならば、バカでかい音を出すアンプとスピーカーを積み込んだ移動式の野外音響設備である。このサウンド・システム同士がはち合わせると「サウンド・クラッシュ」が発生する。対峙した二つのサウンド・システムのうち、より大きな音、よりかっこいい音、より盛り上がる音を鳴らした方が勝ちという分かりやすい喧嘩というか勝負みたいなものである。そのためにサウンド・システムの人間はスピーカーなどの設備を改良し、大きく良い音を鳴らせるよう工夫をし、他のサウンド・システムが持っていないような特注の音源を作るために文字通り心血を注いだりする。
今回の”The Dishwashers”にも、そうしたサウンド・クラッシュ的な一面がある。
今回集まった平泳ぎ本店の俳優、演出家は全員同じ新劇の養成所出身である。三年間を通じてミュージカルよろしく歌ったり踊ったりしたことはもちろん何度かあったにせよ、基本的には会話劇、ストレートプレイを主にしてきた新劇系の俳優たち。
それに対するは、まずシアタープーというこの劇場空間。新宿のど真ん中の雑居ビルの一室。(おそらくは)煙草のヤニで黄ばんだ壁に、絶えず立ち込めるそばや天ぷらや魚の焼ける匂い。(1階がお蕎麦屋さん、2階が魚料理屋さんというビル。)絶えず聞えてくる新宿の喧騒。新聞配達に毎日訪れる新宿タイガーさん。50席足らずの、今までよりすこし小さな空間(養成所の発表会は150席程度)。劇場の中のあらゆるところで感じられる「アングラ」の残り香。(一体普段どんな芝居がかかっているのだろう…?)新劇の養成所という温室からの、このシアタープーという初めての“ど”アウェイ。
さらに、小道具。養成所の発表会では高津装飾美術という所から椅子でもテーブルでもあるいは櫛やかみそりといったほんのちょっとしたものにいたるまで、ほとんど全てのものはそこで借りられた。でも今回は予算の都合でそうはいかない。そんな時にふとした拍子から「右腕が象」というひどく凝った小道具を作っている人がいることを知った。HPのギャラリーを見てみると他にもあまり見たことがないような妙な小道具を沢山作っている。そこに確かに感じられる攻めの姿勢。この人は小道具というそこそこニッチな領域から演劇を攻め立てようといる。「これだ」と思った。本物の道具が借りられないのなら、いっそ想像力で振りきってしまおう。どうせ演劇なんて嘘なんだし。
そうしたわけでサウンド・クラッシュよろしく「新劇系のストレートな芝居が得意な演出家と俳優たち」と「シアタープーという場所」と「攻め気の小道具」というそれなりに異質な三者が鉢合わせることになった。お互いがお互いを相対化し、時に潰し合い、削ぎ合う。これはもうバッチバチの喧嘩である。稽古場で過ごした数十日の間彼らを見ていてひとつ言えるのは、三者とも一歩も引いたり他の誰かにおもねたりする気が一切ないということだ。粛々とぶれることなく、各々が己のなすべきことを全力で遂行する。その結果、あわよくば他を食ってねじ伏せてやろうと息巻いている。
思えばこの”The Dishwashers”という作品も、底にあるのはそうした「サウンド・クラッシュ」的なテーマなのかなと、ある時気がついた。たまたま洗い場で鉢合わせた三人ないし四人が、お互いにお互いの言いたいことを言い、したいことをし、自分勝手に振る舞う。その間誰ひとりとして分かりあえていないのではないかと思う瞬間が何度も訪れる。「あぁこれは日本人にはない感覚だな」と、稽古中にしみじみ思った。日本人ならそもそも仕事中にこんなに喋らない。嫌いな人とは話さない。建前ばかりで本音を出さないし、波風も立てたくないから上辺を装う。
言うまでもなく”The Dishwashers”はカナダという国で書かれた海外の戯曲なのだ。行ったこともない、実際にはほとんど知らないカナダという国の文化の下で書かれた戯曲とその異文化の価値観に、今回の”The Dishwashers”というプロダクションを通じて少しだけ手を伸ばそうとしている。戯曲はもちろん、そこで起こる劇(ドラマ)を翻訳し、演じ伝えることは、可能だと考えている。そんな平泳ぎ本店が信じているのは「演劇の嘘」という逆説。遠からず平泳ぎ本店は必ずカナダへ行くだろう。
そうそう、平泳ぎ本店もまた、稽古場では全員が全員とにかく言いたいことを言い合う。このカンパニーには一人の絶対君主のような人間がいない。カリスマはいない。だから何事も決めるのにひどく時間がかかる。生産性が乏しくも見える。それでも俳優も演出もドラマトゥルクもスタッフも準店員も稽古をよく見て、言いたいことはすべて言う。ある時こうした稽古の仕方が、新劇の養成所の一年目に出会った大先輩の稽古場のやり方を仄かに踏襲していることにはたと思いあたった。「新劇」もそれほど捨てたものではない。のかもしれない。
さて。ここまで書いてみて、あるいは今回数十日の稽古を経て本番をこうして迎えてしまってもなお、演劇、俳優にとっての技術とは何なのかがかなり深刻に分からない。ただひとつ、それを突き詰めていくために必要なものならなんとなくわかる。稽古場での果てる事のない話し合いと、それが許される場所と人と時間。
それらを用意し、平泳ぎよろしく永く経営し続けるというのが、この第1回公演”The Dishwashers”をつくり、上演するにあたっての平泳ぎ本店の一応の理屈である。
平泳ぎ本店 ドラマトゥルク nodding lettuce Co. こと松本一歩
(元ネタ→快快 ドラマトゥルグ セバスチャン・ブロイ氏 『りんご』に向けて、一応の理屈)