第1回公演 ポストトーク抜粋

どうも。

ご無沙汰しております。平泳ぎ本店 主宰の松本です。

公演が終わったのが2ヶ月ほど前で、その後の残務処理や体調を崩したりワークショップへ参加したり舞台を観たり人に会ったりアルバイトをしたり、一応本業の種々のオーディションをのそのそ受けに行ったりして年末年始をやり過ごしたところ、早くも2016年が一月終わろうとしています。(!)

一段落ついてしまうとなんとなくブログに書くこともなくなり、じっと反省の日々を過ごしておりました。

実家に帰省した際には身内から反省を書き連ねたブログが後ろ向きだとの声が上がり、更に反省の念を一層深くするという無限反省のループにはまりこんだりもしておりました。(当人は特にそんな後ろ向きなつもりはありません。)

また折に触れて公演の前後に色々な人から言われた色々なことを思い出して「ああっ!」となったりもしていました。

世の主宰と呼ばれる人達がどうなのかは分かりませんが、僕のようなのは特に、現場から離れてしまうとろくなものではありません。

次の公演の準備も依然としてグズグズとしています。

そんな己に喝を入れるべく、というのはまるで関係ありませんが、先の第1回公演のポストトークで演出家の鵜山仁さんに伺ったお話の抜粋を以下に掲載します。

元々クラウドファンディングで応援して下さった方々に向けて限定で公開していたものですが、公演終了から一定期間が経過しましたので、せっかくなので少しでも演劇が好きな人たちの公益に資するべく、こちらでも抜粋を公開します。

面白いお話だと思います。

分量もさほど多くはありませんが、読んだ方にとって何かしらの足しになれば幸いです。

***以下内容です。***

2015年11月27日(金)19:30Bの回終演後 演出家 鵜山仁さんポストトーク 抜粋

御登壇頂いた鵜山仁さんの御厚意に心から感謝いたします。(以下、敬称略)

藤代(演出) 鵜山さんが演出を始めた頃、初日を迎えるにあたって不安に苛まれるようなことはありましたか?

鵜山 僕の場合は、初日を迎える以前に崩壊してしまったというか…。文学座では1年目の本科、2,3年目の研修科という段階があって、その研修科の発表会でジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』という作品を上演したことがあったんです。で、その前年に別の演出家の先輩が同じく研修科の発表会で宮本研の『明治の棺』という作品を上演したのですが、その先輩は結局演出がおぼつかなくて手に負えなくなり、先輩の座員の人に演出家の席を譲ってしまったということがありました。そういう光景を目の当たりにしていたので「こういうことにだけはなるまい」と思って、『アンチゴーヌ』ではとにかく僕は最後まで自分で演出をしようと思ったんだけど稽古がまるでにっちもさっちもいかない。「なんだか面白くない」「それは違う」ということは言えるんだけど、「じゃあどうしたらいいか」ということは分からないから「自分で考えろ」と言うだけでどうしようも出来ない。そういうことを続けているうちに役者たち(研究生)の顔つきも段々と険しくなってきて、毎日稽古場の山本ビル(四谷三丁目にある文学座附属研究所の稽古場)のトイレの窓から身投げしてやろうかと思いつめてたことはあります。

―演出というのはストレスが溜まらない気楽な職業?―

藤代 演劇のような“ライブなもの”を作る時のストレスということでお伺いしたいんですが、現在鵜山さん自身年間何本も演出をされていて、2つ以上の作品の稽古が被っている場合なんかは(ストレスや何かは)大丈夫なんですか?

鵜山 ことストレスということで言うと、例えば打ち合わせ一つとっても制作の人やスタッフさんが僕の都合に合わせてくれるから、そういう意味ではストレスはまったく溜まらないんです。空いた時間で美術の打ち合わせをコーディネイトしてくれたりするし。9時5時で働いている人の比ではないんじゃないかな。もちろん多勢に無勢という現場にいて、自分の思うことが伝わらないということでストレスを抱えてしまう人というのももしかしたらいるのかもしれないですが。僕の場合のダメ出し(思うようにならない箇所について俳優やスタッフに注文を付ける事)は、僕がAと言って人がBと言ったら、最終的にはCになれば良いやというくらいの感覚でやっているので、ストレスはほぼ溜まりません。「絶対Aにしてください!」「しょうがないからBにします。」ということだとストレスはきっと溜まるんだと思うんですけど、そうではないので。これは結婚している人なんかも家庭で使ってください。自分がAと言って女房がBと言ったらCにする。そうすると何事も大体円満におさまります。

藤代 僕も今後それを採用させていただこうと思います。鵜山さん位年間何本も作品を抱えていらっしゃると、「もう表現したいことはないな」と思われることはないんですか?

鵜山 だって、生きている皆さんはずっと毎日表現し続けているではないですか?

藤代 いや、でもそれが人前に提示できるレベルでの表現、となるといずれ行き詰ることがあるんじゃないのかと思いまして。少なくとも僕は表現したいことが多い方ではないので、想像で考えるんですが…。

鵜山 たとえば定期券を買って電車で同じコースを毎日通っていても、乗っている人の服装や天候やそこから見える景色や、そもそも乗っている人自体変わっていたりするし。年齢のせいもあるかもしれないけど、僕にはそういう毎日の少しの変化が興味深い。芝居に置きかえるなら、これは再演の面白さということにつながるんじゃないかと思うんだけど。まったく同じ作品で同じキャストでも、10年経てばやはり変わる。あるいは台本が一緒でも、キャストが全員入れ替わればまったく別の作品になるとか。そうした作品の変化というのが、ある意味では日常の些細な変化を引き受けるということに似た部分ともなるのかなぁという気はする。

ー芝居は日々変化するー

鵜山 それと「お客さんを相手に表現するレベルで」ということで言えば、俳優であれば地方へ作品を持っていくと、2000人入る劇場で上演した次の日に300人しか入らない劇場で上演するという状況が出てくると、おのずから体の向きや全体の雰囲気といったことが変わってくる訳です。こういうことこそ毎日ライブで変わることの醍醐味というか、俳優の気分や相手役の調子というのは日々変わるものなので、それに晒されて表現が変化していくということはあります。まぁでもそうしたことは会社勤めの日常にもきっと近い物はあるんじゃないかと思うんですが。たとえば「朝飯食うの飽きたから朝飯食うのやめた」とはならないように、人は些細でも違いを見つけて日常をリニュウアルしていく力があるのではないかと思うんですが…、それじゃ駄目ですか?

藤代 いやいや…駄目な筈がないです。(と、松本にバトンタッチ)

ー演出家の仕事、理屈を超えた誤解と期待値ー

松本 演出家の主な仕事というのは俳優の演技にダメを出す(面白くない所に注文を付ける)ことかと思うのですが、鵜山さんのダメ出しは非常に分かりづらいことでも有名です。演劇関係者の間では「鵜山仁は宇宙人だ」といった言葉もよく聞かれます。そんな鵜山さんがダメ出しの際に特に気を付けていることは何ですか?

鵜山 大体芝居っていうのは理屈だけじゃないから、「こういう表情が見たい」という時にたとえ話をしたりして、「そこから先は、宇宙ですよね…」みたいな言い方をしたりする。そこから先は感じて貰えたらいいというか、やや誤解をしてほしい訳です。「1+1=2」というのだとつまらないけど、「1+1を、どうしましょう?」と聞いて、たとえば「6!」なんて答えてもらえると嬉しい訳で。誤解をしてほしいというと語弊があるけども、演出家が石を投げた時にそれがどういう波紋を生むのかという期待が(ダメ出しの時には)まずある訳です。狙っているのは“波及効果”です。そもそも論理的な答えを期待している訳ではないので、不確定だし、「珍しい表情をしてください!」「珍しい声を聞きたいです!」と言っていたいんですが、そういう訳にもいかないので、ちょっとヒントを出して、方向をほのめかしていくというようなやり方になります。「見た事のないものを見たい!」と、少年のように目を輝かせて言っていれば済むケースもあるにはあります。ダメ出しというのはやはり期待値も込みなので、「この答えを出してください!」という要請ほど馬鹿馬鹿しい物はありません。集団芸術ですし。なので「こっちの方へ行きたいんだけど、何に乗って行けばいいですか?」ということを尋ねるのがダメ出し、演出の仕事と言えるかもしれません。

―「音を変える」ということ―

松本 今回の”The Dishwashers”の初日が22日に開いて今日(27日)まで6日間やってきたのですが、一番ショックだったのがお客さんが寝てしまうということでした。たとえばお客さんを寝かさないために「音を変えろ、音を変えろ」ということを新劇の稽古場ではよく言い、藤代も実際に今回のダメ出しの時によく言っているのですが、「音を変える」というのはつまりどういうことなんでしょうか?

鵜山 「珍しいことをやってくれ」「ちょっと変わったことをしてみて下さい」というようなことですよね。「この辺が退屈になるんで、目先を変えるために何かちょっと変わったことやってくれないですかね?」というようなことです。それはたとえばひそひそと話すということであるとか、この手に持っているマイクを投げ捨ててしまうとか、帰ってしまうとか、「実は飛べます」と言って飛んでしまうというようなことかもしれない。あるいはちょっと目の前の何かを触ってみるとか。やはりエンタメですから刻々と変わっていなくてはダメで、それも一人だけ変わっていたのではダメで、周りの人も協力して全体の雰囲気・空気も変わっていなければならない訳です。全体の空気や波動、呼吸が変わるというのもすべてひっくるめて僕は「音が変わる」と言っているので少しインチキと言えばインチキくさいのですが。音楽でもやはり楽譜に書きこまれたフレージングの「変化」というのがとても大切な訳です。照明や音響効果も、装置もそうした変化を助けるものという位置づけではないかと思います。

ここで鈴木(準店員)から、”The Dishwashers”の感想・ご意見をお聞かせ下さいとの声が。

鵜山 物量や嵩の問題もきっとあるんでしょうが、欲を言えば本物の皿を使ったのを見たかったなと思いました。この作品は「ながら芝居」というか、お皿を洗いながら、拭きながらの芝居なのでそうした仕事を通じた肉体の変化とそれに伴う言葉のキャッチボール、やりとりというのが肝になるのではないかと思うので、たとえ二人で会話するシーンであってもそこに3人目の「皿くん」の姿が見えてくると良かったなぁということは思いました。登場人物がひとりやや足りないかなぁと。

―技術とは何か?

松本 最後になりますが、鵜山さんの考える演劇における「技術」とはなんでしょうか?

鵜山 僕(演出家)が言うのと俳優の人が言うのとでだいぶ違うとは思うんだけど、これはある演出家が言っていたことなんだけど、「大きな耳を持つのが大事」ということじゃないですかね。大きな耳、つまりアンテナを張って、来たものを感知する、そしてそれを投げ返すということ。さっきも話に出た「変化」を醸してくれるのは往々にして外から来る自分以外の事件でありノイズである訳で、自分の中にある引きだしなんかたかが知れている。たとえば「おはよう」というのか「おっはよ」と言うのか、そんな微細な変化であっても、自分の引き出しや尺度にないものというのは他人がくれるもの。それをキャッチして自分が変わるということを実現できるようなアンテナ、感覚をもつということじゃないかと思うんです。これはきっともちろん日常生活にも必要なことなんだけど、舞台の上だけでもそれを実現する、その名人芸を披歴するのが芝居というライブアートだと思うので。「技術」と言うと脚がどれだけ高く上がるか、とかいうようなことを指す気がして抵抗があるが、要は相手の変化を感知してそれを受け取った上で自分の中で化学変化を起こさせて、それをまた確かに人に送り返すサービス精神、反射神経、エネルギー感覚というのかな、俳優にとっての技術というのは。それって鍛えられるのかなぁ…やっぱり鍛えられると思います。それぞれに特徴があるだろうからそういう感覚がまったく0という人も完璧で100という人もいないだろうし。そのための訓練、鍛錬、全体としていろんな音を出せるようになるためにどうしたらいいのか…。

―よりよい演劇人を目指すための奥義?

鵜山 だからなんか、この歳になって言うのもなんだけど、異性と付き合うのはとてもいいことですよね。その人の人生を、あたかも深い書物を読み解くかのように共有する、受け入れる営みと言うか。本を読む名人のように他の人の考え方、感じ方に寄り添うための時間を集中的に沢山持つというのはとてもいいことだと思います。そのために外国へ行って良い芝居を見ていい人と付き合って良い物を食べて勉強してきなさいなんて先輩の劇作家から言われたりしたものです。

…以上です。

抜粋なのでこの他にも色々お話はありましたが、終始和やかにお話しくださいました。

演出を務めた藤代と鵜山さんが大学の部活の先輩後輩ということで実現した不思議なポストトークでした。

演出を始めた頃のお話から演出家という仕事のストレスや、再演の面白さ、また巷でよく言う「音を変える」ということなど、(聞いている我々としては)色々と伺えて有意義な時間でした。

鵜山仁さん、また当日会場で居合わせた皆様、重ね重ねありがとうございました。

減るものではありませんし、演劇が好きな人に悪い人はいないと思いますけれども、ご厚意で行って頂いたポストトークです。何卒なるべく無断での引用・転載はご遠慮ください。

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