25日まで別件の舞台を抱え、今週の月曜日(26日)から合流して3日、「台詞が入らない…」(当たり前)とうなだれる河野に「演劇には台詞を
直前まで入れないメソッドもある(から大丈夫)。」という旨のことを伝えようとしてド忘れしていました。
「焦らなくてもいいからね」と言いつつ、「(台詞を)早く入れるに越したことはないからね」とも言い 、「こういうのをダブルバインド(矛盾した二つの指示を同時に与えること)って言うんだな」「彼がロボットだったらぶっ壊れるんだろうな」と思ってしみじみしました。
ロボットは矛盾に弱いらしいです。
はい。
我ながらどうでもいい話でしたが、今回は演出の事についてです。
演劇をちょっとばかし齧るとなんとなく分かった気にはなるのですが、その実演劇を全く知らないない人に「演出家」というもののイメージを説明しようとするとなかなか難しいです。
「映画で言う監督」と言うと演劇には「舞台監督」というのもいるのでややこしく、とりあえず俳優の演技を見て指導したりする人といったところでしょうか。
演劇は共通の「作り方」とか「マニュアル」みたいなものがないので、まぁ現場ごとに演出家の役割もまちまちというのが本当だと思います。
今日の稽古場で個人的に面白かったワンシーンというか場面を取りあげつつ話を進めます。
はい。
一番手前に座っているのが”準座員”こと鈴木なのですが、読みあわせのダメ出し(演出が見てて気になったことのチェック)の時に、ある役について彼自身が見てて気になったことを話している様子です。
一通り喋り終わったあとに「なんかごめん」と何故か謝りつつ、いそいそと所属事務所のレッスンへ向かう姿に圧倒的な小者感が漂っていてちょっと面白かったです。
で、彼が何について話したかというと、ある役の全体の中での居方・見え方が「なんだか上手くいってない」「なんか気になる」という違和感についてです。
まだ読みあわせの段階とはいえ、はたから観ていた彼が気になるということはおそらく実際の観客の人も気になるということです。
なのでそうした違和感を感じる部分は稽古の間にどうにかしなければならないということになります。
で、色々端折ると、その違和感をどうにかするのがある意味では演出の仕事だということになります。
演劇をやっていると、どんな作品でも多かれ少なかれ稽古の間に「なんかここ上手くいってないな」「なんだか変だな」という箇所が出てくることに気が付きます。
そういうのは稽古場にいる俳優も演出家も、あるいは他のスタッフさんも間違いなく気がつく類いのものです。
往々にしてそれを上手く言葉にすることは難しいのですが、1つ確実に言えるのはそういう部分を見て見ぬフリをすると大概良い結果にはならないということです。
なのでそういう箇所を指摘する”準座員”鈴木は、”準座員”鈴木なりにクリエイティブな役割を見事に果たしていると言えます。問題箇所の洗い出しというか。(だから間違っても遠慮なんかするな鈴木。)
肝心なのは、そういう課題となる箇所があるということを全員で共通認識として持つことです。
演劇は逃れようもなく集団での共同作業なので、上手くいかないシーンがあったとしてもそれが誰か一人のせいということは絶対にありません。
個人的な意見になりますが、たとえばスタニスラフスキー・システム的ないわゆる俳優の「役作り」を、僕はあまり信用していません。そういうシステムを十全に理解してマスターした俳優を揃えられるなら別ですが、平泳ぎ本店はそういう訳ではありませんし、ぶっちゃけ誰もが北島マヤみたく役になりきれるとは思っていませんし、どれだけ考えようが俳優の心なんか見えません。
誤解を恐れず言えば、唯一信用できるのは「見え方」だけではないかと思っています。俳優や演出のプラン・企みと、その達成度。観ていて違和感なく「妥当だ」と思えるかどうか。それをはかる基準が「見え方」で、平泳ぎ本店が考えたいのはそのための「技術」です。
なので、ある役やシーンが上手くいかなければ上手くいくように全員でイメージを共有する。擦り合わせる。あるいは、アイディアを出し合う。そちらに価値があると考えます。
なんにせよその時に大切なのは言葉です。
で、俳優はもちろんですが演出に特に求められるのはそれだけで俳優の演技の質やモードを具体的に変えられる様な言葉じゃないかと思います。目の前の他人に、直接今とは違う演技や行動を促すようなヒント、きっかけ、動機となるような言葉です。
世阿弥の「離見の見」という言葉がありますが、俳優が己を客観的に見るというのは至難の技です。(カメラで撮れば分かるっちゃ分かりますが、演劇では滅多にカメラは使いません…。)
もちろん俳優は誰しも自分なりに考えて役に対するプランや企みを持って演技をするわけですが、「自分で思っている自分の演技」と「はたから見た自分の演技」の印象は、実は滅多に一致しません。意識して一致させられれば名人です。
仮にそんな状態に陥った俳優を患者と見立てれば、彼にアドバイスやサジェストをする演出なり周りの人間は医者ということになります。
患者を良くしたいのなら患部がどこにあるのか、症状の程度や原因を丁寧に診断した上で手術をするなり投薬するなりの適切な処置が求められます。
たとえば「頭が痛い」と言っている人の腹を切っても仕方がないですし、「なんで頭が痛いんだ!」と言っても「頭が痛いあなたは健康ではない」 といっても尚意味がなく、一周回って「頭を痛くなくしろ」というのは無理な話です。
(こうやって喩えると「頭が痛いのはお前が本気じゃないからだ!」と言って怒る医者というのも見てみたくなります。)
あるいはスポーツ、旬のラグビーとかでもいいんですが、エディーHCは「トライをとってこい!」「なんでトライが取れないんだ!」なんてざっくりしたことことは言いませんよね。
選手のパフォーマンスを上げるためにどういうトレーニングをして、どういう戦略を立てて試合を戦うかということを選手やコーチに具体的に伝えるはずです。
話が脇へ逸れましたが、言葉の芸術たる演劇の中で俳優の表現・パフォーマンスを変えようと思ったら、畢竟手段は言葉しかないということが言いたかったのでした。
客観的な違和感を伝える言葉。俳優が自分の企みやアイディアを皆に伝える言葉。俳優の演技を改良するためのヒントや手がかりとなるような言葉。
言葉が処方箋になり、薬になり、手術器具になり、戦術に、戦略になる。
野球にだってチームにピッチングコーチ、打撃コーチ、バッテリーコーチ、ヘッドコーチなど色んなコーチがいてコーチの数だけプレーヤーへのフォローはきめ細かくなる様に、平泳ぎ本店も稽古場にいる各々がいろんな種類の言葉を尽くして、コミュニケーションの精度を上げることで、作品の基準を上げる。
このコミュニケーションの精度というのが、俳優や演出の【技術】の一端を担うのではないかと睨んでいます。
俳優も演出も、どんな言葉を手に入れられるのか、その勝負。
そんなわけで、平泳ぎ本店は日々言葉を尽くします。
平泳ぎ本店 第1回公演
“The Dishwashers”
予約受付中です。
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「技術」にこだわる平泳ぎ本店。
クラウドファンディングにも、挑戦中です。ぜひご一読ください。
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松本